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御祭神
相殿
末社
由緒

 現在、下作延神明神社には天照大御神・素盞嗚尊・御霊神がまつられています。『新編武蔵風土記稿』(文政十一年〔一八二八〕徳川幕府編纂)に見える神明社・牛頭天王社・五郎社(御霊社)を本殿に併せておまつりしているのです。末社としては稲荷社が本殿の左後方にあり、講社の人々が大切にまつって来た御嶽社が本殿の右側にあります。

 御霊神(五郎權現社)はもともと村の南の字根もちりにあったものです。丘の上にある小さな祠で、覆殿は東向きでした。祭神名や鎮座の年代は記録されなかったため既に解らなくなっていました。例祭は九月廿三日で、村人がこぞって執り行いました。

神明社は五郎權現社と同じ所にありました。これも鎮座について詳しい伝えがなく、本殿は一間四方で拜殿は三間・二間の大きさで、こちらも東向きでした。例祭は八月十九日に行われ、村が祭礼を維持していました。

以上の二社は村の守り神として信仰されて来ました。

次に八坂社(牛頭天王社)ですが、こちらは村の北に当たる字北谷にまつられていました。社殿は一間半四方で東向きでした。例祭は六月七日に行われ、祭礼は村を挙げて行いました。

次の稻荷社も字北谷でまつられていました。その位置は八坂社より約三二七メートルほど北に当ります。これも村が維持していました。

なお拝殿に向かって右手奥に手水鉢が二つあります。一方には「芝二本榎町/願主常五郎/當所/世話人德五郎」「嘉永二乙酉年/八月吉日/氏子中」とあり、江戸時代〔一八四九年〕奉納のものです。もう一方には「當所稲荷神社新築記念/之爲手水鉢ヲ奉納ス/東京市四谷花園町五三/当所御屋敷三田之出生/成田山新護講教會所/權大教正 宮村謹衆/少講師 石川佐喜/昭和五年三月九日午ノ日」とあり、昭和初期のものです。

また参道の石段を上り切った所には「明治四辛未年八月吉日」と記された明治期〔一八七一年〕に立てられた幟旗用の支柱があります。その幟旗は江戸時代( 〔 〕)の物で、かなり傷んでいますが複製が現存します。拝殿前には「國威宣揚/在郷軍人會青年團/下作第一區第二區/昭和十三年五月」と記した幟旗用の支柱もあります。

近年、隣接地から狛犬(年代未祥ですが作風は江戸期)と御霊社の石の祠の笠部分が出土しています。

 境内には戦没者慰霊碑があり、神木にはスタジイのほか、銀杏・松・楠(昭和天皇御在位六十年記念樹)があります。

参考資料『新編武蔵風土記稿』巻の六十一・橘樹郡之四(抜粋・訳)

o下作延村  下作延村は上作延村の東に当る。昔の領主などのことは既に上作延村のところで触れてある。御入国後は戸田六郎右衞門・村上左衞門の二人の土地であったが、村上の土地は上作延と同じく元祿十一年〔一六九八〕に国へ納める土地〔上地〕となって幕府直轄地〔御料地〕となった。

ここは今、小野田三郎右衞門の代官領地〔御代官所〕である。村の広さは、東西十五町〔約一四八八アール〕、南北十町〔約九九二アール〕ほどである。その境は十町〔一〇九〇メートル〕ほどの距離で接している。南は馬絹・末長・久本の三村に隣接し、相模の国〔相州〕の矢倉沢街道を境とする。また馬絹村の並びの土橋村にも少し掛っている。

また、この矢倉沢海道は村の南の境界に沿うこと六町〔約六五四メートル〕ほどで、道の幅は三間〔約五・四メートル〕から六間〔十・八メートル〕あり、東西への幹線道路である。東は溝口村に接し、東北〔艮〕の方から北へかけて久地村に及び、北の方は堰・宿河原の両村に隣接し、北西〔乾〕の方に長尾村が少し掛っている。西は上作延村が入り込んでいる。

日本橋から五里〔約十九キロメートル〕の距離である。土質は上の村〔上作延村〕と同じである。畑〔陸田〕が多く水田は少ない。農業用水の具合が悪く、しばしば旱の被害を受けた。また江戸幕府直轄地〔御料所〕には新たに開墾した畑〔陸田〕が六段五畝二十四歩ある。

宝暦十一年〔一七六一〕伊奈半左衞門が測量〔検地〕して税率〔貢数〕を定めたという。村内には牧草場がある。北の方の字北谷という所で、広さは一町二段ほどの野原である。また松や雜木の林がある。三町六段二畝で四十二ヶ所に散在している。

この村は稲毛領の諸山の尾の先端に当り、東西北に丘と林があり、その間に農地が開けている。南の方は平らであるが地形としては高い所だ。戸数は七十一軒あり所々に点在している。

五郎權現社  村の南、字根もちりにある。境内地は丘の上にある。小さな祠で覆殿は八尺〔約二四二センチメートル〕×九尺〔約二七三センチメートル〕で東向きである。祭神名および鎮座の年代は伝わらない。例祭は九月廿三日。村の受け持ち。

神明社  五郎權現社と同じ並びにある。これも鎮座の年を伝えない。本社は一間〔約一・八メートル〕四方で拜殿は三間〔約五・四メートル〕×二間〔約三・六メートル〕で東向きである。例祭は八月十九日。これも村の受け持ち。

以上の二社は村の守り神〔鎮守〕である。

牛頭天王社  村の北、字北谷にある。一間半〔約二・七メートル〕四方の祠で東向きである。例祭は六月七日。村の受け持ち。

稻荷社  字北谷にある。天王祠より三町〔約三二七メートル〕ほど北に当る。小さな祠。村の受け持ち。

参考資料『新編武蔵風土記稿』巻之六十一 橘樹郡之四(原文)

下作延村  下作延村は、上作延村の東に當れり、昔の領主等の事は已に上作延村の條に出せり、御入國の後戸田六郎右衞門村上左衞門二人が知行なりしが、村上が知行は上作延と同く元祿十一年上地となりて御料地となれり、是は今小野田三郎右衞門が御代官所なり、村の大さは東西十五町許、南北十町程、其の四境は十町ばかりに接せり、南は馬絹末長久本の三村に隣り、相州矢倉澤海道を界とす、又馬絹村の並びに土橋村の地も少く係れり、又此矢倉澤海道は村の南境を経ること六町許にして、道の濶さ三間より六間に至り、東西への往來なり、東は溝口村に接し、艮の方より北へかゝりて久地村に及び、北の方は堰宿河原の両村に隣り、乾の方に長尾村少くかゝれり、西は上作延村犬牙す、日本橋より五里の行程なり、土性は上の村におなじ、陸田多くして水田少し、用水便あしきを以屢旱損の患あり、又御料所の内には新墾の陸田六段五畝二十四歩あり、寶暦十一年伊奈半左衞門檢地して貢數を定めしと云、村内秣場あり、北の方字北谷と云所にて廣さ一町二段許の原なり、又松雜木の林あり、三町六段二畝四十二ヶ所に散在せり、當村は稲毛領諸山の尾のさきにて、東西北に丘林ありて其間に田圃ひらけり、南の方は平なれども其地形は高し、家數七十一軒所々に散在せり、

五郎權現社  村の南字根もちりにあり、社地は丘の上なり、僅なる祠にて覆屋八尺に九尺東向なり、祭神及鎭座の年を傳へず、例祭九月廿三日村持、

神明社  同じ並びにあり、是も鎭座の年を傳へず、本社一間四方拜殿三間に二間東向なり、例祭八月十九日是も村持、以上の二社村の鎭守なり、

牛頭天王社  村の北字北谷にあり、一間半四方の祠にて東向なり、例祭六月七日村持、

稻荷社  字北谷にあり、天王祠より三町許北に當れり、僅なる祠なり、村持

☆町=①一町は十反歩。畝の百倍。三〇〇〇歩。約九九・一七三アール。②長さの単位。一町は六十間。約一〇九メートル。☆間=長さの単位。一間は六尺。約一・八メートル。☆里=距離の単位。一里は三十六町。約三九二七・三メートル。☆段=地積の単位。一段は一町の十分の一。三〇〇歩〔約九九一・七平方メートル〕。☆畝=地積の単位。一畝は三十歩。段の十分の一。約一アール〔一〇〇平方メートル〕。☆歩=一間〔六尺=約一・八メートル〕×一間。三十六平方尺〔〇・三三アール〕。

氏子区域
下作延1丁目・2丁目・3丁目・4丁目・5丁目ほか
住所
〒213−0033
川崎市高津区下作延4-16-1

交通案内
JR南武線「久地」駅下車、徒歩7分

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